米子蔵 米切手 米弐拾五俵 

 鳥取藩の蔵屋敷は大阪中島宗是町(現在の中之島三丁目)にありました。
宗是の名前は江戸時代の両替商・千種屋の縁者といわれる早川宗是という人物が開発したことに由来します。宗是町には町家もあったものの大部分は松平伯耆守、因幡鳥取の蔵屋敷が占めていました。屋敷跡は現在ビル(地上22階地下2階)が建てられています。
 


 この札は藩の大阪蔵屋敷が発行した手形の一種で、厳密に言うと紙幣ではありません。蔵米を買い受けた米仲買が代金の3分の1を支払ったときに蔵屋敷から受け取る預かり証券です。
 大阪において米中心の経済が発達、商人間の信用も高かったため、通貨として機能を持ち始めました。しかし、各藩は財政が苦しく蔵に米の納品がなくても米仲買にこの切手を乱発しだします。
 また米仲買の間でもこの切手と投機目的での転売が盛んとなり、米価が急騰、大きな経済問題になりました。
札には
「高四千取之内 塩屋 定次郎買
米弐拾五俵
右可相渡、水火難不存候、以上
米子蔵
辰十一月廿五日也
百五十三」
 と書いてあります。
 米弐拾五俵は藩によって一俵の違いがあるものの米十石のこと。
 「水火難不存候」とは、万一保管中に米穀に水火の難があっても弁償しませんという意味です。